結局、エンタメって「好き嫌い」と「面白いかどうか」しかないのでは?

■ みんなが何かの評論家

このネット社会では、あらゆる人間があらゆる事物、事象に対して、自分の意見を言っている。SNS(特にTwitter)は、特にその傾向が強く、とりとめもなくタイムラインを眺めているだけで様々な意見が流れてくる。インターネットが発達する以前からあらゆる人間が意見を持っていたはずだが、ネットの発達によってそれを世間に発信しやすくなった(世間からも見えやすくなった)というのは誰も異論はないだろう。言い古されたことだが、国民総評論家時代が来ているのだ。

僕自身も何かに対して意見や評価をつけ、つい「あれは神回だった」だの「これはクソゲー」などと言い、読んだ本は読書メーターで記録を付け、観た映画はfilmarksで記録を付け、毒にも薬にもならぬブログに記事を思い出したかのように書いている。ふと思うことがあるのだけれど、この活動って一体何……?そして誰も求めていないのに世間に対して自己評価を表明している「僕」って誰……?

いや、厳密には何かに評価をつけることは、ある程度仕方がない。さっきも言ったが、僕も触れた作品に対して好き勝手に意見を言っているからだ。何かに対して誰かが感想を抱くのを止めることはできない。むしろ、いろいろな人がいろいろな意見を自由に発信することができる世界の方が健全ではないかと思う。

■ 「これは〇〇か」という議論

意見の発信について少し前にモヤモヤしたのは、昨年末のM-1グランプリの結果で巻き起こった「これは漫才なのか」という議論だ。僕はお笑いに全然詳しくないのだけど、M-1決勝戦に出ているくらいなのだから、これは漫才だと認められて1回戦、2回戦、準々決勝、準決勝と勝ち抜いてきたのでは???

そもそも、誰がこの議論を始めたのかも不明だし、この議論に決着がついて誰が得をするのかも不明。イジられるネタが増えるマヂカルラブリーさんは結果的には得なのかもしれないので、もしかすると彼らのファンが始めた議論という可能性もある(多分違う)。とにかく、個人的には「何じゃこの議論は」という気持ちだった。

「これは〇〇か」という議論は、どのジャンルにもある。「これはミステリーか」「これは純文学か」「これはSFか」などという議論を目にしたことがある人も多いだろう。こうした「これは〇〇か」という議論は、Twitterでは特に「〇〇警察」という知識と時間を持て余した豊富に持った怖い人々によって引き起こされることがしばしばだ。恐ろしい。

「これは〇〇か」という議論は、警察のご厄介になりたくない僕のような善良な市民にとっては、あまり近寄りたくないものである。議論が激しい割に解決をせず、知識マウントをとられて終わりという悲しい結末が待っているかもしれないからだ(=現代の激しい拷問の上での獄中死に相当する)。もしあなたが僕と同じような考えであれば、そんな議論とは距離を置いた方がいいかもしれない。

答えの出ない議論から距離を置いた上で、僕のような素人がエンタメ作品を評価する際には「好き/嫌い」「面白い/つまらない」の2つの軸で見た方がいいのではないかと思っている。どちらも主観が入りまくったものだけど、プロの批評家ではないのだし、主観で物事を評価するのは素人の特権ではないか。そういうわけで、僕個人のM-1については「マヂカルラブリーさんのネタは面白いと思ったし、僕は好き」というめちゃくちゃ小学生みたいな感想しか言えない。

多くのエンタメ作品は「面白いし、好き」「つまらないけど、好き」「面白いけど、嫌い」「つまらないし、嫌い」という4つの観点に振り分けることが可能だと思う。たまに「面白いかも分からないし、好きかどうかも分からない」という謎の感情を呼び起こす作品もあるけど、これは特例中の特例なので無視して良かろう。

これは逆に言えば、「好き/嫌い」と「面白い/つまらない」は分けて評価した方がいいということでもある。人はどうしても好きなものにはポジティブな評価を、嫌いなものにはネガティブな評価を与えがちだと思うけれど、2つの軸で評価することで、複雑な感情をシンプルにとらえなおすことができるのではないだろうか。

長々と書いてしまったけど、結局言いたいのは「2つの軸で評価してはどうか」という提案と「議論をふっかけてくる怖い勢力に気をつけよう」という警告に尽きる。せっかく世間に意見を表明しやすくなった時代なのだから、楽しくノビノビとやっていきたいものだ。

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