変わったのはTwitterか、あるいは僕か

こんなツイートをした。

Twitterが変わってしまったのか、それとも僕と僕のTLが変わってしまったのか。Twitterの好きなところは、たくさんのツイートがTLの上を滑っていくことだったのに、リアルタイムでつぶやく人間はもはや少数。僕がフォローしているアカウントの多くは実際に知っている人々だけど、その多くはつぶやかない or 鍵垢になってしまった。

大学の友人たちは、就活を境に鍵垢になっていく。まるで大学生活を隠すように。みんな、そんなに見られちゃいけないことをつぶやいているのかい?見られちゃいけないことをつぶやいている人間の方が、まったく鍵をかけようとしない傾向にあるのは何故なんだろう。天地がひっくり返ってる。

少なくとも、僕にとって今のTwitterは楽しいところではない。流れてくるのは「意見」「意見」「意見」。特に昨今は違憲に対する意見。これは笑うところ。政治に興味があるのは最高だし、意見を言うことも最高だ。だけど、Twitterの中にある奇妙な熱狂だけは好きになれない。僕は弱い人間なのだろう。たくさんの人間の怒りや嘆きがTLの波に乗って押し寄せてくると、ヤドカリのように殻にこもって流されまいと必死になってしまう。

いわゆるバズっているツイートに対して、宣伝をツリーでツイートする風習っていつから始まったのだろう。僕はバズるという言葉も好きになれないし、宣伝をする風潮もあまり好きではない。宣伝なんかせず、静かに腕組みでもしていてほしい。

(そもそもTwitter自体の迷走もひどい。ファボをいいねにしたのもナンセンスだし、トップツイート表示とかいう誰も望んでいない機能を実装するのも意味が分からない。Twitterを使ったことない人間が仕様を作ってるんじゃないかと思ってしまう)

ふと、大学生だった頃に友だちと笑いながら見ていたアカウントたちを思い出す。「ホグワーツチェリー校」(通称ホグチェリ)、「あたしゃ許さないよbot」などなど。そのほかにもあったはずなのだけど、僕はもう思い出すこともできない。全部くだらないアカウントなのだけど、そのくだらなさがTwitterの楽しさだったような気がする。

そうか、いまの僕のTLにはくだらないツイートが減っているのだ。もしかすると過去を美化しすぎているのかもしれない。それにしても、くだらなさが減っている。僕も、みんなも。くだらなさが減っているからと言って、のぼっているわけではない。平坦な道を進もうとすることが大人になるってことなのだろうか。

↑こういう”大人”になってはいけない。自戒を込めて。

再びブログを書くようになったのは、SNSというかTwitter疲れの表れなのだろう。ブログを書くのは時間がかかるし、読むのも時間がかかる。なので、もしかすると誰も読んでくれないかもしれない。そんな中で、僕の文章を誰かが読んでくれたら、それだけでとても嬉しいことのように感じる。僕は皆さんの文章も読んでみたい。

Twitterが一発ギャグなら、ブログはひとり漫談。くだらない内容でも、誰かが面白いと思ってくれば良いんじゃないかな。その誰かが、たとえ自分だけだったとしても。(もちろん反社会的な内容は書くべきではない)

おわり

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